CRAFTS

工芸品一覧

江戸小紋Edo Komon

有限会社小宮染色工場

【人間国宝】 小宮 康正

江戸時代、各大名が門外不出として守った小紋。
江戸の美意識がここに現れています。

江戸時代、世の中が安定すると、各大名たちは江戸城へ登城の際、着物の豪奢さを競り合うようになりました。それを見かねた幕府は、贅沢な着物の着用を禁じました。

このことが、一見、遠目には無地に見えるけれど、近寄って見ると緻細な模様が描かれているという江戸小紋が生まれるきっかけとなったのです。

やがて、各大名たちは、それぞれ代表的な模様を門外不出として保護するようになり、江戸の庶民の間でも小紋は広まっていき保護されました。

大名が江戸城登城の際に、着用していたことから、小紋といえ、これら定め小紋は現代でも礼装として認められています。

定め小紋の代表的なものには、前田家の「菊菱」や紀州の「鮫」などがあります。

葛飾区が誇る人間国宝、江戸小紋の小宮康正氏

祖父の代から続く染工場に生まれた小宮康正氏は、父の康孝氏(昭和53年重要無形文化財江戸小紋保持者認定)のもとで江戸小紋の修行に励み、父親の技術を受け継ぎました。

昭和55年の日本伝統工芸展で初入選し、昭和58年の同展で文部大臣賞を受賞しました。平成22年、紫綬褒章受章。平成30年、重要無形文化財「江戸小紋」保持者認定されました。

小宮康正氏からのコメント

この小紋染めは自分の力だけではいい物はできません。いい生地をつくる人、いい紙をつくる人、いい型を彫る人がいなければいい製品はできません。

ですからこの仕事にかかわっている職人さんを大切にしなければ、いい製品を作りつづけねばならないと思っています。

印伝Inden

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有限会社印伝矢部

矢部 恵延・祐介

インドから伝わり、広州で広まった印伝。
小粋な小物が江戸の人々に人気となりました。

印伝とはインド更紗模様の形紙により色染めした、四百年の歴史を持つインド伝来の鹿革製品のことです。鎧の胴板、兜の吹き返しや戦国武将など多く日本人に愛用されてきました。

その後、漆加工を施す技法が創案され、さらに色漆を使うようになりバラエティに富んだ製品が作られるようになりました。たとえば、信玄袋、胴巻き、巾着、銭入れ、煙草入れから現代人の札入れ、がま口、ハンドバッグ、ベルトなど。

遅々扱われた鹿革のしっとりとした手触りと漆の光沢、このニつのことなる個性が調和しすばらしい製品が次々に生まれています。

大正13年創業の東京印伝の老舗。親子三代に受け継がれる伝統の技。

印伝矢部は、創業100年近い歴史を誇る。

昭和41年より父親の手解きで、印伝の製造法を習い、以後新柄の制作等を意欲的に行い、日本古来のものとしてだけでなく、洋風なものにも調和するような製品作りを手掛けている。

  • [平成11年]葛飾区伝統工芸士 認定
  • [平成27年]東京都優秀技能者(東京マイスター)受賞

矢部恵延氏からのコメント

印伝は、鹿革に漆を塗るといった簡単な作業ですが、平均して塗る事は、熟練した技術が必要で、鹿革に漆を綺麗にのせるには、漆と顔料の混ぜ具合そして、気温と湿度が微妙に関係してきます。これはすべて今までの経験からの勘で仕事をしています

矢部恵延氏 経歴

昭和18年葛飾区堀切生れ
東京都優秀技能者(東京マイスター)
葛飾区伝統工芸士

矢部祐介氏 経歴

昭和52年 葛飾区に生まれ
平成13年 家業である印伝の師事を受ける。
令和4年度 東京都中小企業振興公社「東京手仕事プロジェクト」にて印伝のルームシューズが優秀賞を受賞。
令和6年度 葛飾区伝統工芸士認定。

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江戸型彫Edo type carving

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矢田型紙店

矢田 幸蔵

良い染めには、良い彫りが必要。
新たな流れを生んだ江戸型彫の世界。

型彫りのルーツといわれる伊勢形紙。しかし、形紙とひとロにいっても、錐彫り・道具彫り・突彫り・縞彫りなどと呼ばれる技法があります。使う道具によって、さまざまな技法が生まれ、それらは地方の産業の特性に合わせても変化していきました。

江戸時代には、多くの伊勢形紙職人が江戸にやってきました。伊勢の流れを受けながらも、引き彫りと呼ばれる技法や細かい切りのよい大胆な縞図など、江戸ならではは独自の進化を遂げたものが江戸型彫です。

東京都のマイスターを受賞した、祖父の代から続く染型の彫刻師。

手供の頃からスポーツ万能。学生時代にはさまざまな運動部を掛け持ちするほど引っ張りだこだったという。特に剣道・スキーの腕前は全国レベル。

友人たちは、小さな紙と小刀を使い、黙って仕事をする型彫の仕事を継ぐとは誰も思っていなかったという。

しかし、矢田さん自身の考えは違う。

「誰がやっても1mmを切るのは一瞬。でも、型彫はその0.1mm手前で止めなければならないこともある。静かに見えるけど、瞬間、瞬間に要求される判断力と運動能力はハイレベルなんです。失敗はできません。だから、奥深いし、やりがいがあるんですね」

  • [平成15年]葛飾区伝統工芸士 認定

矢田幸蔵氏からのコメント

伝統的なものを後世に残していきたい。しかしデザインなどは現代の人にも受け入れられるように考えなければならないと思います。

だから人が嫌がるような細かい物でも、客の注文に答えられるよう彫り続けなければと思っています。

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東京三味線Tokyo Shamisen

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三絃司きくおか

河野 公昭

ルーツは中国の三弦。江戸で本格的に進化を遂げた日本の三味線。

日本の三味線の先祖は、中国の「三弦」という楽器です。
14世紀に中国から当時の琉球(沖縄)に伝えられ、その琉球から日本に伝えられたのは室町時代末のことでした。
日本古来の琵琶に代わり弦楽器の中心となった三味線は、江戸時代に本格的に使われるようになり、長唄や浄瑠璃の邦楽の発展とともに三味線づくりも発展しました。
三味線づくりには、「サワリ」という独特の工夫が成されています。
それによって、三味線独特の複雑な音階がかもし出され、余韻(響き)が、残るようになります。原色よりも中間色を好む日本人は、複雑な倍音(オーバートーン)を含む音を好むのは当然といえましょう。

徹底的なこだわりを持ち、材料を海外から買い付けるところから製作をする。

河野さんは、大学卒業後、浅草の職人に弟子入りし、26才で独立、平成2年に現在地にて開業した。
学生時代から、三味線のことに詳しかったわけではなかった。しかし、元来より、物事にのめり込みやすく、徹底的に三味線のことを研究するうちに、作るだけではなく、自分で材料も海外から輸入するようになったという。
気に入った材料を使い、最上の品に仕上げる喜びは職人でなければ味わえないという。河野さんの製品は海外でも人気を呼んでいる。
[平成15年]葛飾区伝統工芸士 認定

河野公昭氏からのコメント

最近は、機械製品もありますが、お客さんの要望に細かく答えられるのは、手作りのものです。
剤利用は、6~7年寝かせて使い、長唄や民謡と小唄。端唄では、皮の厚さも微妙に違います。

河野公昭氏 経歴

昭和33年台東区生れ
葛飾区伝統工芸士

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硝子彫刻Glass Engraving

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マツウラブラスト

松浦 健二・勝利

ガラスを彫る 砂のアート

サンドブラストの誕生は、圧縮エアとともに。

ガラスの表面を細かい砂で彫って模様をつけるのがサンドブラストだ。グラスや花器、鏡や照明など、サンドブラストの技術で製作されるものは私たちの身近なところにたくさんある。日用品としてのグラスから、贈呈用に製作される一点もののグラスまで、幅広いものづくりに対応するのは、松浦さんの技量あってこそ。ガラスの種類も製品の形も多様であり、そのひとつひとつに合わせて仕上げられる。

サンドブラストは19世紀のアメリカで生まれた技法で、空気を圧縮して噴射する「エアコンプレッサー」の発明とともに発展してきた。圧縮エアを利用し、砂の粒子を高速で素材に吹き付ける技術であり、金属のサビ取りや塗装剥がしにも応用されている。

知り合いの社長に勧められて飛び込んだサンドブラストの世界

「もともと手に職をつけたいとの思いがありまして、それで当時アルバイトをしていた飲食店の社長がサンドブラスト加工の会社を経営されていて。その社長から、従業員が独立するから戻ってこないかって声をかけてもらったのが、サンドブラスト加工との出会いです。26歳のとき、そこで4年働いてから独立しました。」

サンドブラストは、今では専門店や体験教室が全国各地に存在するほど広まっている。グラスに砂を吹き付けて表面をスリガラスに加工し模様をつける、お手軽なものづくり体験として親しまれている一方、松浦さんが手がけているサンドブラストは、彫刻の深さを表現する「段彫り」の技法や、グラスの色の被せを彫りわけて芸術的な作品に仕上げる「被せガラス」の加工など、職人ならではの特別な技術が求められる仕事だ。

さまざまな素材への技術と経験が新しい製品を生む姿勢になっている

「グラスとしては広い販路のカタログ商品とか、持ち込みのものが多いですね。もともと別のところで彫っていたものを継続して受けるケースが多くて、彫刻師は減っているので、声をかけてもらえるのはありがたいことなんですが。仕事が重なるとやっぱり大変で。」

サンドブラスト加工を施す素材は、もっとも多いガラスに加え、金属、アクリル、石材など、実に多岐にわたる。また、グラス製品の場合、同じ形状であっても、ひとつひとつ仕上がり具合が異なるため、注意を払いながら加工を施す必要がある。

「ガラスだけやっていると、どうしても偏ってしまう。たとえば葛飾区の依頼でアクリルに彫ったことがあったんですけど、そういう経験が積み重なって、自分のなかの引き出しが増えていくのがいいなと思っています。それがあたらしいものづくりにつながるんじゃないですかね。」

組み合わせることで楽しいことが生まれる

松浦さんは、同業の職人仲間を大切にして交流を続けている。時代とともに、サンドブラストの業界にも変化が訪れつつあるという。新たな試みとして、同業仲間と合同で展示会を開催するなど、サンドブラストの認知度を高めるための活動を行うなかで、新しい出会いにつながることも。

「切子とか絵付けとか、異なる技術を組み合わせることで、新しいものが生まれるんじゃないかなと。サンドブラストだけでは表現できないものが表現できるようになりますし。そういうつながりが生まれると楽しいですよね。」

サンドブラストとしてではなく、ガラス加工として、どのような相乗効果を発揮できるか。それを考えていくのも、これからの課題だと話してくれた。

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伊勢形紙Ise Katagami

松井形紙店

松井 喜深子

起源は諸説あるが、1000年以上の伝統を誇る伊勢形紙。

白子、現在の鈴鹿市あたりで発祥したといわれる伊勢形紙。現在も主に鈴鹿市を中心として生産されています。しかし、その形紙に使われる和紙は、柿渋による独特の風合いと丈夫さを加味した美濃和紙。そしてそれを元に作られるのが江戸小紋という、地域を越えた伝統産業のつながりがここに見られます。

これもひとえに、伊勢湾に面し、当時紀州藩によって手厚く保護された交易の要所として発展したことが大きいといわれています。

仕事にほれろと父に言われたことが今でも仕事の支えとなっている。

現在で四代目となる松井形紙店。ここ東京では江戸型彫りとも呼ばれる伊勢形紙だが、松井さんは代々受け継がれてきた「伊勢形紙」というルーツを大事にしているという。

また、修行中のうちに先代を亡くし、そこからは独力で今の仕事の基盤を築いてきたが、本人はまわりからの助けのおかげとこれまでを振り返る。

父から教わったことは、「仕事にほれろ」ということ。あまりよくわからなかったが、それでも言われたとおり、浴衣姿の女性を眺め続けたり、ちいさなこだわりを徹底的に追求したりと、今ではすっかり仕事が好きになってしまったと笑う。

  • [平成21年] 葛飾区伝統工芸士 認定

松井 喜深子氏からのコメント

まだ、まだ、修行の身です。

父が言っていた「一生、修行」・「仕事は丁寧に」の言葉を忘れずにがんばっていきたいと思います。

松井 喜深子氏 経歴

  • 昭和39年 葛飾区立石に生まれ
  • 平成21年 葛飾区伝統工芸士

彫金Metal Engraving

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檜垣彫金工芸

檜垣 隆博

はるか古墳時代までさかのぼる伝統工芸の祖ともいえる彫金技術。

彫金の技術は悠久の歴史を持ち、古墳時代後期が起源とされています。江戸元禄時には、自由な発想と新鮮なデザインにより生活用品の中に広まりました。彫金はカンザシや指輪等の装身具、置物、神仏具などに施され、製品に格調と厚みを加え、素材本来の持ち味を引き立たせます。その技法には彫り(鏨(たがね)を使って地金に彫りをすること)、打ち出し(地金の延びや縮みを利用して叩いていくこと)、接合(地金どうしを金蝋等を使用して接合すること)、色金(地金を溶解炉の中で溶かして合金を作ること)、象嵌(違う種類の色金を加工して嵌めていくこと)などがあり、現在は地金から様々な技法を使って装身具を作る技術全般を指しています。

初代より受け継いだ技法を二代、三代と研鑽し、高めてきた檜垣彫金工芸。

葛飾の地に店を構えたのが、二代目檜垣宜夫さん。それから60年以上もの間、彫金一筋に歩んできた。三代目隆博さんは、大学入学と同時に父に師事し、卒業後は、宝飾品会社で研鑽をした後、独立した。

伝統的な彫金技術に加え、独自の編込み技術を開発。ジュエリーなどの装身具において高い評価を受けている。

檜垣 隆博氏からのコメント

檜垣彫金工芸は、1910年代に祖父である檜垣銀蔵が足立区北千住で創業、2代目檜垣宣夫は独自の彫金技術を進化・発展させ、3代目檜垣隆博は「手編みジュエリー」という新たな分野を開拓して現在に至っています。

「手編みジュエリー」は、檜垣彫金工芸の創業以来の伝統的な工具・工法を現代的な感性と融合させることで生まれた新たな作風で、18金やプラチナ、銀などの貴金属を線状に加工して手作業で編み上げ装飾品を作る技術をいい、そのネーミングは"彫金"という言葉が曖昧に使用され、手彫りからワックス製品まで幅広く重層的な技術を意味する現在、よりわかりやすく焦点を絞った3代目檜垣隆博の発案によるものです。

「手編みジュエリー」は平成27年に『葛飾ブランド』に認定されました。

檜垣彫金工芸では、これまで自宅工房で製作された作品を主に三越・伊勢丹・タカシマヤなどの百貨店で開催されている職人展で実演・販売をしてまいりましたが、このたび店頭でお客様から寄せられるご要望にお応えしてインターネット販売にも参加させていただくことになりました。これを機に、これまで「手編みジュエリー」をご存じなかった遠方のお客様にも御覧いただけたら幸いです。

檜垣 隆博氏 経歴

  • 昭和35年 葛飾区生まれ(三代目)

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東京銀器Tokyo Silver Craft

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工房「夢雲」

西山 愼二

延喜式までさかのぼる日本における銀器の歴史

絹のようなやわらかな光沢、熱伝導率に優れ、触れた瞬間に温もりさえ感じる金属「銀(Ag)」は、古くから人類にとって、さまざまな生活用品を作るための貴重な素材だった。

銀製品といえば、ヨーロッパというイメージが強い。しかし、日本は石見銀山をはじめとする多数の鉱山を抱え、かつて世界最大級の銀の産出国だった歴史がある。

日本における銀製品の歴史は、はっきりしているところで延喜式(916年)まで、おそらくはそれ以上さかのぼることができるといわれている。法隆寺献納御物の中にも数々の銀製品が残されており、その完成度は高い。江戸時代に入ると、銀製品を作る職人は銀師(しろがねし)と呼ばれ、その多くは大名家に重用され、さまざまな作品を残した。

慶応3年、明治元年(1867年)、パリで開かれた万国博覧会で、銀製の茶器などをはじめとする日本の銀製品が紹介されると、その独特で情緒豊かな造形がヨーロッパで話題となる。

その後は、ヨーロッパの技術が導入され、さまざまな種類の銀製品が作られるようになった。

金、銀、銅に関するあらゆる技術を駆使して生み出される品々。

帝釈天でお馴染みの葛飾柴又の西にある高砂は、京成線の乗り換えの要所としても知られている。この駅から南に徒歩10分ぐらい歩いたところに、西山慎二さんの工房はある。

西山さんは、東京銀器における鍛金を生業とする銀細工職人の家に、昭和27年3月、8人兄弟の5男として生まれた。

銀細工には、鍛金、彫金、鋳物、その他、さまざまな種類がある。そのどれをとっても一つの立派な伝統工芸であるが、西山家では鍛金だけでなく多くの技法を学ぶことが是とされたのだそうだ。

若い時から学ぶことを求められたからなのか、柔和な笑顔に、穏やかで物静かな口調の西山さんは、職人というよりは、どこか研究者のような雰囲気も感じさせる。

「まあ、仕事が広がるからということだったんじゃないかと思いますけどね。ただ、金属工芸において由緒正しい技術を継承しているという意識は父親の中にはあったのかな」そう言いながら、見せてくれたのは古い書物。

そこには東京美術学校(現在の東京芸大)に明治28年に鍛金をはじめとする技術を学ぶ工芸科が設置された経緯が書かれており、そこに携わった金属工芸の技術者たちの系譜が記されている。その系譜が西山家に繋がっている。

時代の波に逆らわず、学ぶことに徹した30代からの日々。

中学校を卒業すると、他の兄弟と同じように、父の三郎氏に弟子入りすることになるが、夜は都立工芸高校金属工芸科に4年間通い、さまざまな技法について学んだという。

「銀器は、こうでなければいけないという決まりがないんです。だから、自由にできる。そこが楽しいし、難しいところでもあります。頼まれれば、いろいろ作ってきました。印刷機械の模型を作ったり、素材も銀だけでなく、プラチナ、金、銅、いろいろ」

30歳までは、親兄弟と共に工房で仕事に励んだ。競馬の優勝トロフィーや在留米軍向けの銀食器、金杯にいたるあらゆる物を作ったと当時を振り返る。

しかし、いつしか大量生産、大量消費という時代の波が押し寄せ、仕事が急速に減っていった。

そこで西山さんは、以前より興味があったジュエリー関係の会社に職人として就職することになった。「当時は、まだ、若かったし、もっともっといろんなことを学びたかった」と話す。機械化も進んでいる大きな会社だったので、原型作り、仕上げ、石留から修理技法まで学ばせてもらった。

「修理はとても面白くて、初めての連続だったけど、それまでの経験が生きる場面も多かったんです。また、私が持っている技術やアイデアを活かし、喜ばれたり。それが楽しかった」そうして、20年ほど勤めたが、しかし、またしても時代は変わる。

生産が人件費の安い海外に持っていかれてしまい、会社の景気が傾いてしまった。

皮肉なことに、今度は手仕事の伝統工芸が見直されるようになってきたのである。そこで西山氏は、お世話になった会社を辞し、兄の工房を手伝うようになった。

そして、いよいよ独立起業し、自身の工房「夢雲」を立ち上げることになったのである。

工房「夢雲」。自分の作品作りを楽しみ、また、学生に教えることも楽しむ日々。

西山さんが、これまでの人生でもっとも思い出深い出来事は、初めて作った作品を応募した東京銀器組合第一回金銀工芸新作コンクールにて「東京都中小企業団体中央会賞」を受賞した時のことだという。

というのも、その時に父であり、師匠の三郎氏が、ものすごく喜んでくれたのだとか。

「同じコンクールで、兄貴も別な賞をとってね。兄弟で受賞したからなんでしょう、ものすごく喜んでくれたんです。父があんなに喜んでくれるとは思わなかったんで、印象深いんですよ」

今、西山さんは、自身の工房「夢雲」を営み、他の兄弟たちも、東京銀器のマイスターとして、それぞれ活躍している。

「これでよかったと思います。十分、学ばせてもらったから、もう、あせることもなく自分の作品づくりに打ち込める環境ができましたしね」

現在、西山さんは、製作に励む一方、母校の都立工芸高校からインターンシップを受け入れ、生徒たちに技術指導もしている。弟子入りを志願する生徒も時々いるという。

「興味を持って、学びに来てくれるのはうれしいですよね。この時代じゃ、弟子はとれないし、自分の持っている技術も限られた時間じゃ教えきれないけど、その代わりに良い物を作って残せばそこから学んでもらえるんじゃないかと思っています」だから、西山さんは、今、作りたいものがたくさんあるという。

その一つが、一枚絞りの湯沸かし。「注ぎ口から弦を付けるミミまで打ち出す鍛金の絞り技法は、西山家の得意とするところなんです」

鍛金の絞り技法は、平面の金属板を数えきれないほど、何回も槌で叩きのばして、立体に仕上げていく。この技法を父から受け継ぎ、長けていたのが、兄であり、その兄が、当面の目標であり、一番のライバルとのことだ。

「兄貴にできるんなら、自分にもできると思えるんですよね。超えられるかどうかはわからないけど、同じようにやってみたいという思いがあるんです」

時代の波に翻弄されてきた兄弟が、こうして同じ技術を追い求め続けることで、繋がっていられるというのは、すごいことである。

いつできるかわからないというが、西山さんの湯沸かしの仕上がりを見る日が楽しみである。

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東京銀器Tokyo Silver Craft

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上田銀器工芸

上田耕造

名家が認めた日本の銀食器メーカーの草分け、上田銀器工芸


葛飾の堀切菖蒲園駅から、ほど近いところに銀食器メーカーの老舗、上田銀器工芸株式会社はある。この社名を知っている人は、多くはないかもしれない。販路が限られるこの業界では、製品に冠されるブランド名は東京や大阪にある一流百貨店等になることが多いからだ。
 しかし、ここ上田銀器は、日本の銀食器メーカーの中で、右に出るものはないといわれるほどの製造技術を持つメーカーである。
 その実力を最初に認めてくれたのは、皇后美智子様の生家である正田家であったという。後にその関係で、御成婚の際、白樺のお印入り銀食器を製作することになる。これにより、その品質の高さが宮内庁にも認められ、海外の要人を招いて開かれる宮中晩餐会用のテーブルウェアの製作を手がけることになった。今でもなお、修理を含め、様々な依頼を宮内庁より直接に受けている。雅子様の浜茄子のお印入銀食器も同社の作であり、まさに日本のロイヤルブランドといっても過言ではないが、同社はこれまで、あまりそのことを表に出すことはしなかった。特別な物を作っているわけではないからというのがその理由だ。

ヨーロッパのカトラリー製造技術と日本の伝統技法を融合させた上田銀器


創業は大正15年、先代の上田新次郎氏が横浜で修業した後、台東区に工場を開き、戦後、葛飾のこの地に落ち着いたという。でも、最初から質の良い製品を作れたわけではなかった。
 「当時、スプーン等の柄と先端部分は蝋付けして作っていたんですが、その技術が低く、海外に比べて強度が出ないんです。それで注文をくれた進駐軍から不良品だと突き返されちゃいましてね」と現在の同社代表、上田耕造さんは苦笑いをしながら振り返る。学校を出て、父親の元で修行していた時のエピソードだ。そもそもがナイフやフォークなどの銀食器は日本の食文化にはないから、要求されているレベルがわからなかった。それでも負けん気の強かった上田さんは、日本の伝統技法である鍛金法を使って、徹底的に叩いて分子構造を安定させ、絶対に曲がらないフォークやスプーンを作り上げたという。しかし、それでは日に数本程度しか製作できず、生産効率が低すぎた。
 そこで、鍛金法を生かすために、立体成型を取り入れることを思いつき、お金をためてプレス機を買った。それが仕事を楽にしようとする態度に見えたらしく、父親に金槌を持って追いかけられたという。
 「決して、楽をしようと思ったんじゃなくてね。ただ、ヨーロッパに負けないものを作りたかった。それだけなんです」
 その真剣な思いは、やがて父親にも伝わる。途方もない労力をかけて、金型まで作成するようになった息子の姿に嘘はないことを感じたのだろう。成型後に徹底的に鍛金し、磨き上げるという上田銀器の一つのスタイルがここに出来上がった。

伝統を守るということは、伝統にとらわれないこと


下記にあるように、上田さんの伝統工芸士としての経歴は輝かしい。しかし、伝統工芸士という立場にとらわれてはいないという。
 「伝統は大切。しかし、我々職人は良い物をいつだって作りたい。もし、科学が進歩し、伝統よりも優れた技術が生まれたら、私は躊躇なくそれを取り入れます。そうやって伝統工芸というのは続いてきたんだと思うから」
 そうして彼が取り入れてきた技術はたくさんある。その一例がナイフの蝋付けだ。銀のテーブルナイフは、刃と柄の部分の蝋付けがどうしても必要だった。上田氏はナイフの蝋付けに、鉛などの有害な物質を使うのが嫌で、それを使わずに強度の高い蝋付けができる方法はないかと模索した。長い年月をかけて、たどり着いたのが大手自動車メーカーの製造ラインに据え付けられていた融点の違う素材を瞬間的に圧着する機械だったという。すると、驚いたことにその機械を製作したのは、同じ葛飾区にある町工場だった。
 「灯台元暗し。ずいぶん遠回りしちゃった」と上田さんは苦笑いする。
 「銀は抗菌作用もあって、体にとても良い物質なんです。私が作るのは、銀食器。口に入れる物だから、赤ちゃんにだって安心な製品だっていえるようにしたかったんです」

弾くと響く、リーンという透明感のある音こそ、質の高いの銀製品であることの証。


上田銀器のテーブルウェアは、スプーンであれ、フォークであれ、大の男が曲げようとしても簡単には曲がらない。入念に鍛金されている上に、銀の量が多いので厚みがあるのだ。
 「今は、なんとか製品に少し自信がもてるようになりましたよ」そういうと、上田さんは自社製のテーブルフォークを指で弾いた。リーンという鈴のような音が響く。次に誰もが知っているヨーロッパの有名ブランドのフォークを弾いてみてもボフッという音しかしない。
 「別に音がすべてじゃないけどね。でも、もうヨーロッパでいいなあと思うのは、ジョージ・ジェンセンぐらいですかね」と寂しそうにつぶやいた。銀食器の本場のヨーロッパでは、良い銀食器というのはどんどん作りにくい状況になっているという。
 だから、自分がこうして今、作りたい銀食器を日本で作れるのは幸せだと上田さんはいう。
 「ありがたいことに、どこからか私たちのことを聞きつけて、注文をくれる方が日本にはいます。そういうお客様がいてくれるので、良い物を作り続けられる」 上田銀器の製品を手にすると、なんとなく自分が誇らしく思えてくる。決して高級品だからというわけではなく、良い品からは、それだけの作り手の思いが伝わってくるのだと思う。今、そういう製品が日本にどれだけあるだろうか。まぎれもなく上田銀器の製品は、そういう品である。

【上田耕造氏】


平成2年 通商産業大臣指定・国の伝統工芸士に認定
平成5年 第一回全日本金銀創作展にて銀食器で関東通商産業局長賞を受賞
平成6年 東京都伝統工芸指定・伝統工芸士に認定
平成10年 東京都優秀技能者として、知事より優秀技能賞を授与
平成12年 黄綬褒章を授章

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手描き友禅Hand-painted yuzen

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きもの染色工房"ひょ"

兵藤 修

独自の発展を遂げた友禅、落ち着いた色彩と静かな華やぎ

友禅染めは、日本を代表する染色技術であり、京友禅、加賀友禅、東京友禅の三つが有名である。その中でも東京友禅は、江戸時代に京都から伝わり、江戸の町民文化を背景に発展した。

京都の華やかな雰囲気とは異なり、江戸の粋な美意識を反映した渋みのある色彩と洗練されたデザインが特徴である。

落ち着いた色彩と細緻かつ、大胆な構図が持ち味。

  • [平成12年] 葛飾区伝統工芸士 認定

兵藤 修氏からのコメント

「自分だけにしか出来ない仕事を創り出す。」をモットーに、努力を続けています。

兵藤 修氏 経歴

  • 1957年 山口県萩市に生まれる
  • 1975年 和裁を学ぶ
  • 1977年 手描き友禅 田嶋学に入門
  • 1979年 国際染織展 入選
  • 1981年 日本手工芸美術展で日本商工会議所会頭賞 受賞
  • 1983年 独立
  • 1985年 日本伝統工芸士染織展 入選
  • 1986年 日本工芸会正会員 認定
  • 1989年 宮崎県総合博物館にて「宮崎の華」をテーマに個展を開く 東京きものファッション協議会で受賞
  • 1993年 第1回『さくら』で入選 秋田『きもの花展』で会長賞 受賞
  • 1995年 日本伝統染織展 伝統染織『山と雲』で入選
  • 1998年 日本伝統染織展 伝統染織「しぶき」で入選
  • 1999年 日本伝統染織展 伝統染織「久遠」で奨励賞 受賞
  • 2000年 葛飾区伝統工芸士 認定

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江戸べっ甲(鼈甲)Edo Bekko

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山川ベッ甲

山川 金作

火と水の技が生み出す、淡く金色に輝く、悠久の美。

鼈甲(べっこう)。その起源にはさまざまな説がありますが、漢の時代、中国でその細工が広まり、ヨーロッパを経て、奈良時代に日本に伝わったといわれています。

タイマイの甲羅を加工して作られるこの装飾品は、淡い黄白色の輝きを持ち、その美しさと肌触りの良さから、人々の間で大切にされてきました。

日本でも正倉院の収蔵品に鼈甲製品が数多く見られますが、庶民の装飾品として広まったのは、江戸の中期からです。

鼈甲は、膠(にかわ)と似たような成分を含み、接着剤を使うことなく、火と水を使うことで、どのような形にも加工できることから、さまざまな生活の道具の素材として取り入れられ、多種多様な製品が生まれました。

しかし、現在はワシントン条約により世界的に商取引が停止されているため、それ以前に輸入された原材料が尽きれば、伝統工芸としての鼈甲の歴史は途切れることになってしまいます。

現在、そうならないためのさまざまな取り組みが行われていますが、まだ、見通しは立っていません。

身分の高い人のためのものだった鼈甲製品が人々に広まったのは江戸中期。

葛飾区と江戸川区の境にある新小岩。成田や都心への交通の便が良く、物価も安いことから外国人も多く住む下町の繁華街である。その新小岩駅から程近いビルの一室に、伝統工芸士・山川金作さんの工房はある。

ご存じのように江戸鼈甲とは、ウミガメの一種、タイマイという亀の甲羅を加工して作る伝統工芸品だ。

日本の近海にはタイマイは生息しておらず、奈良時代より、鼈甲は琉球やフィリピンより入ってくる、身分の高い者のための宝飾品であった。

庶民が鼈甲を身につけられるようになるのは、長崎で貿易が盛んとなる江戸も中期に入ってからのことである。「斑(ふ)」と呼ばれる柄の中に、あめ色の部分が多い物ほど高級とされ、眼鏡をはじめ、かんざしや櫛など、あらゆるものに加工された。

明治、大正、昭和と時代は変わっても、鼈甲製品は庶民の憧れであり続けた。戦後の高度経済成長期には、多くの鼈甲屋さんが隆盛を極めた。しかし、ワシントン条約により1992年を最後に、原材料のタイマイが輸入できなくなった。

「今は材料が入ってこなくなっちゃったからねえ。いい材料さえあれば、作りたいものはいっぱいあるんだけどね」と年季の入った作業台の前で、山川さんは苦笑いをする。

現在、世界的に商取引が禁止されているタイマイの問題は、解決のめどが立っていない。

日本の鼈甲職人は、組合を通して手に入る貴重な材料や、それぞれが抱える在庫を互いに融通しあって、なんとか製作を続けている状況だ。

地方を転々とした幼少期、東京で鼈甲職人としての道が開けた

山川さんの生まれは、新潟県。すぐに静岡に引越し、小学校までを過ごした。そして、中学校からは山梨に移り住んだという。

「親の仕事の都合で、地方を転々としてね。静岡から動きたくなかったんだけど、でも、山梨に行ったから、今の自分があるんだよねえ」と当時を振り返る。山梨の中学校の先生が、東京の大手の鼈甲工房を紹介してくれたのだ。それで東京に出てくることができた。進学よりも就職が先だった。家も貧しかったが、当時はまだ皆、そういう時代だった。

「就職した鼈甲屋の社長がいい人でね。ずいぶん、面倒をみてもらったなあ。まだ、ほんの子供だったから、失敗もいっぱいしたんだけどね。思えば僕は人に恵まれてるんですよ」

小さい頃から、地方を転々としてきた自分をウミガメみたいだと自嘲する山川さん。そんな山川さんを仕事仲間や職人仲間は、親しみをこめてキンちゃんと呼ぶ。山川さんの穏やかな風貌と優しい語り口に、誰もが気安さを覚えるという。

しかし、いざ仕事に入ると山川さんの表情は、一瞬で変わる。やがて、手先に集中する緊張感がまわりにも伝わってくる。親しさ以上に仲間が、山川さんの仕事に対して信頼が厚いのもうなづける。ある職人さんはいう「キンちゃんは他人の飯をずっと食ってきたから、仕事に対する心構えが違うんだ」と。

山川さんが自分の工房を開いたのは、実は平成16年と、まだつい最近である。それまではずっと最初にお世話になった社長の下で、職人として勤めてきたのだ。

「その社長さんが亡くなって、背中を押されたような感じだったのかなあ。なんとかなるかなと思ったんだよね。それにこれしか自分にはできないしね」

先行きが不透明な鼈甲業界に見切りをつけ、廃業を決める工房も多い中での船出だった。でも、仲間が支えてくれたから、やってこられたと山川さんは振り返る。

これからはさまざまな伝統工芸が連携していく時代なのかもしれない

鼈甲の場合、さまざまな工芸品の装飾パーツの製作を依頼されることも多い。自分の作品になるわけでもない仕事だし、手間もかかるのだが、どんな小さな仕事でも手を抜くことなく、丁寧に山川さんは取り組む。

その噂を聞きつけた大手ジュエリーブランドが、さまざまな仕事を依頼してくるようにもなった。思い出深い仕事は、最高級のカメオの台の製作を頼まれた時だという。

「やっぱり、良い物はいいんだよね。そして良い物を作ることができた時には、本当にうれしくなるんだ」

山川さんの作品の魅力は、その丸みにあると長年、彼の顧客だというご婦人が話してくれた。確かに徹底的に磨き上げられた山川作品の曲面は、プラスチックのレプリカとは比べようもないほど、何重にも艶が重なっていて美しい。

山川さんに、鼈甲の仕事をしてきて、どんな時がいちばん楽しいですかと尋ねた。

「やっぱり、お客さんに喜んでもらえた時だよね。決して、安くないお金を払ってくれているのに、お礼まで言ってくれるんだもの、ああ、本当に喜んでくれてんだなあと思えて、嬉しくなる。ありがたいよね」

山川さんのように、直接販売店を持たない職人さんの作品にめぐりあうことは、一般の人にとってはとても難しい。もちろん、百貨店に行けば並んでいるだろうが、おいそれと手が出る値段ではなくなっている。葛飾では、職人さんたちが互いに交流しあっているので、共同でさまざまなイベントを開いたりする。そういう時はチャンスである。また、葛飾の場合、さまざまな伝統工芸の職人さんのつながりが深いので、業種を超えた注文にも、きめ細かく応えることができるのが強みだと山川さんはいう。

「伝統工芸って、それぞれ同じ業種の組合でまとまることはあっても、他業種で連携するというのは全国的に見ても東京の葛飾区以外にあまり例がないんですよ。でも、これからはそういう時代だと思うなぁ」

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東京打刃物Tokyo Uchihamono

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菊和弘

大河原 康宏

廃刀令により江戸の刀鍛冶は庶民の道具を作る技術へと進化していった。

江戸打刃物、東京打刃物といわれますが、両者の起源はまったく同じです。

戦国時代、国は分かれ、それぞれの戦国大名たちはより強い武器、より丈夫な武器の生産に注力しました。刀鍛冶が最も隆盛を極めた時代といわれています。

それが江戸時代に入ると、戦がなくなり、刀剣の需要は一気になくなりました。とはいえ、侍の世の中ですから、刀鍛冶はなくなったわけではありません。江戸を中心として、刀鍛冶は健在でした。むしろ、大量生産でなくなった影響で、質的には高まり、技術も進化した時代といえます。

しかし、明治時代を迎えると、廃刀令という法律によって、鎌倉時代から続く侍文化そのものが否定されてしまうという大変革が起こります。

当然、江戸の刀鍛冶職人も新たな道を模索することを迫られます。そこで新都市となった東京では刀剣で磨いた技術を生かし、さまざまな道具が製造されるようになりました。

その一つが「裁ち鋏」です。

優れた鍛冶職人が集まり、東京は根岸の一角で、総火造りと呼ばれる技法(型を使わず、一枚の鋼から、あらゆる形を叩き出す)を用いて、鋏が作られるようになりました。その仕上がりの見事さが評判となり、それまで裁縫といえば裁ち包丁だったものが、洋装の広まりとともに需要が一気に高まったのです。

今、この技術を伝える職人は東京でもほぼいなくなってしまいましたが、今日でも、東京打刃物といえば、「裁ち鋏」を指すほど知られています。

総火造りとは、型を使わず、槌一本で、様々な道具を作る最も古典的な鍛冶の製法。

父親の幸氏の跡を受け継ぎ、菊和弘の工房を一人で切り盛りするのが康宏氏だ。

裁ち鋏の名匠として、全国的に名をはせた幸氏の跡を受け、さぞかし、重圧もあったのではないかと思うが、意外にもそうした気負いはご本人からは感じない。むしろ、自分自身もいつかは父のように、あらゆる刃物を作ってみたいと楽しそうに意気込みを語る。

「鋏は難しいんですよ。今は納得のいくものができるように一生懸命、修行中です」と大河原さんは笑う。

修行中と控えめにご本人はいうが、令和元年に葛飾区の厳しい選考基準をクリアし、認定された、れっきとした伝統工芸士である。葛飾区伝統産業職人会においても、若手ながら中心のまとめ役として、区のイベントなどの取りまとめ役をこなしている。

その実直な人柄と、自由な発想で生み出される新たな製品が注目され、全国の百貨店から展示会へのオファーが絶えない。

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江戸木彫刻Edo Wood Carving

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北澤木彫刻所

北澤 秀太

古代から現代にいたるまで、日本の歴史とともにあった木彫刻の世界

仏教伝来とともに大陸から伝わったとされる木彫刻。平安の昔から、京都、奈良を中心として、たくさんの仏像が彫られていたのはご存じの通りです。しかし、室町時代に入ると、像崇拝を否定する禅宗などの宗派が台頭し、仏像が彫られる機会は一気に少なくなります。

その後、職人たちは、寺院などの社殿の欄間、柱などの建築彫刻を手がけるようになり、建築における装飾文化が花開きました。そして、江戸に入るとその技術はますます高まり、日光の東照宮のような名建築が生み出されるようになります。

最近の研究で、東照宮は、そのほぼすべてのパーツが江戸で作られ、漆塗りをされてから、現地に運ばれ、組み立てられたことがわかりました。漆で硬く木材をしめることで輸送中のトラブルを少なくしようとした江戸の職人たちの知恵を感じます。

そうした建築物の他に、江戸時代は、身近な木工製品や芝居や茶道の道具など、木彫刻の技術が生かされ、さまざまな製品が作られ、木彫文化が一気に花開いた時期でもあります。

そして、文明開化の明治を迎えると、海外の文化が広まり、日本でも西洋建築が盛んになりました。大正、昭和と時代が進むにつれ、木彫刻においてもその影響を受けた職人たちは多数にのぼります。彼らの傑作は、国会議事堂をはじめとするさまざまな建築物に、今日も見ることができます。 

じっくりと考えて選んだ 木彫刻への道

江戸木彫刻と一口に言っても、その仕事は多岐にわたる。その歴史を振り返ると、仏像をはじめ、寺院仏閣の建築美術、皿、茶碗などの暮らしの道具類から装身具にいたるまで、日本文化そのものに木彫刻は関わってきたといっていい。

たとえば、伝統芸能の「能」の世界にも「能面師」や「面打ち師」と呼ばれる木彫の職人たちがいる。

北澤秀太さんは、その能面師の一人。1968年葛飾生まれ、実の父は、北澤一京氏。富岡八幡宮の神輿や成田山新勝寺の獅子頭、故石原裕次郎氏の仏壇を製作したことで知られる江戸木彫界の重鎮である。

幼い頃から、父の仕事を間近で見るのが好きだったという。しかし、父から一言も跡を継げと言われたことはなかった。厳しい世界だということはわかっていたので、継ぎたい気持ちはあったものの、決心がつかず、大学進学の道を選んだ。進学したのは国立の東京農工大学、専攻したのは林産学科だった。

卒業時、本人のキャリアや当時の時代背景からしても、さまざまな選択肢はあったと思われる。しかし、迷うことなく父に弟子入りを志願した。父は「やりたいならやれ」という感じだったという。

北澤さんは、父である師匠から与えられる仕上げ彫りなどの下仕事を黙々とこなしていく日々を送る。父親の仕事を徹底的に観察し、真似た。しかし、常に心の片隅には、いつかは父親と違う自分にしかできない木彫のスタイルを築きたいという気持ちがあったという。

自分にしかできない木彫のスタイルを求め、飛び込んだ能・狂言の世界

江戸木彫の職人会が縁で、面打ち師の伊藤通彦師に出会う機会に恵まれたのだ。

「その時は講習会のような形式で、一年をかけて般若の面を作ったんですが、面を作ることが、すごい楽しいと思えたんです。彩色があるというのも面白かったし、もっと習いたいという思いで、伊藤先生の門を叩いたんです」その時から、北澤さんの新たな木彫の修行が始まる。無我夢中で面を彫りつづけた。

「基本的な木彫という技術は、能面も仏像も変わらないんです。でも、材料が木だけじゃない。彩色もあれば、植毛もある。僕の場合、葛飾の職人会という他業種の職人さんが集まる組織があったおかげで、さまざまな職人さんに支援してもらえたんです。本当に幸運だった」

そこに、さらなる幸運が重なる。プロの能楽師に作品を見てもらえる機会に恵まれた。その出来栄えが評価され、面打ち師として、一歩を踏み出すことができたのだ。

木の塊から、イメージを生みだす楽しさ、夢は世界に広がり続ける

今、北澤さんの元には、国内だけでなく世界各国からさまざまなオファーが舞い込む。

2011年サンフランシスコで上演された海外の役者達によるシェークスピアの舞台だ。演目は「リア王」。その主役であるコーデリア姫の面を北澤さんが彫り上げた。彫りの深い外国人の顔を違和感なく能面で表現した高い技術が、内外で絶賛された。

また、同じ年、イギリスの劇作家ジャネット・チョング氏が書き起こした新作英語能「PAGODA」のツアーが中国と日本で開催され、北澤さんはその面の製作やワークショップなどを担当し、北京大学で講演もした。

「海外の役者さんと仕事するということは、いろんな意味で勉強になりますし、とても刺激的なことです」

実は、北澤さん自身も、仕事の合間を見つけては、狂言を学んでいる。自らが表現者となることで、面に対しての考え方を深められたらと考えているそうだ。

「木彫の楽しさは、木の塊から、自分のイメージが生まれてくること。だから、自分のイマジネーションが豊かであるように努力することが、製作者として大事だと思うんです」

北澤さんの彫り上げた面を見ると、その凛とした美しさに魅了されると同時に、気圧されるような迫力を感じる。まるで、すべてを見通されているかのような気持ちになる。この感覚は絵画や彫刻などの他の美術品にはない感覚である。

北澤さんの面と対峙すると、能や狂言という舞台が、役者、衣装のみならず、面を含めて、それぞれが持つ魅力を統合して成り立つ芸術なのだということをあらためて感じる。

観光土産物ではない、舞台用の本物の能面の魅力というものを、ぜひ、このサイトを通して感じていただければ幸いである。

 

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江戸木彫刻Edo Wood Carving

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塩田彫刻店

塩田 正

古代から現代にいたるまで、日本の歴史とともにあった木彫刻の世界

仏教伝来とともに大陸から伝わったとされる木彫刻。平安の昔から、京都、奈良を中心として、たくさんの仏像が彫られていたのはご存じの通りです。しかし、室町時代に入ると、像崇拝を否定する禅宗などの宗派が台頭し、仏像が彫られる機会は一気に少なくなります。

その後、職人たちは、寺院などの社殿の欄間、柱などの建築彫刻を手がけるようになり、建築における装飾文化が花開きました。そして、江戸に入るとその技術はますます高まり、日光の東照宮のような名建築が生み出されるようになります。

最近の研究で、東照宮は、そのほぼすべてのパーツが江戸で作られ、漆塗りをされてから、現地に運ばれ、組み立てられたことがわかりました。漆で硬く木材をしめることで輸送中のトラブルを少なくしようとした江戸の職人たちの知恵を感じます。

そうした建築物の他に、江戸時代は、身近な木工製品や芝居や茶道の道具など、木彫刻の技術が生かされ、さまざまな製品が作られ、木彫文化が一気に花開いた時期でもあります。

そして、文明開化の明治を迎えると、海外の文化が広まり、日本でも西洋建築が盛んになりました。大正、昭和と時代が進むにつれ、木彫刻においてもその影響を受けた職人たちは多数にのぼります。彼らの傑作は、国会議事堂をはじめとするさまざまな建築物に、今日も見ることができます。

一切の木くずを捨てず、最い一片で、組み合せ仕上げ「埋めなし」という技法。

塩田彫刻店の開業は戦後の昭和21年。先代の又平氏が開業した。現在の正氏は2代目に当たる。

正氏は中学校を卒業後、父に弟子入りした。しかし、「オヤジは何もおしえてくれなかった」と苦笑いする。

同じ頃、弟子入りした仲間は12人いたが、7年後に残ったのは自分ひとり。それでも、父親のそばで、仕事を手伝いながらその背中を見て、技術を磨いていった。

正氏が得意とするのは、一切の木くずを捨てず、薄い一片まで組み合せて仕上げる「埋めなし」という技法。塩田家だけでなく、江戸木彫刻の職人たちが得意とする、この技法で作り上げた作品は、まるでひとつの木の塊を彫り上げたような仕上がりになる。

正氏は、何十もの木のパーツで、その作品を作り上げていることを、使う人には気づかせない。そこにプロとしての矜持があるのだ。

道具を研ぎ、買い占めることで仕事を繋いでいった戦後の時代

先代から仕込まれたのは、技術だけではない。正氏は父親が命より大事にしていた道具も受け継いでいる。

戦争に負けた後、何もかもなくなった東京の焼け野原。それでも父は、木彫刻しかないと仕事にこだわった。材料もなければ、道具もない。道具は拾ったり、骨董屋で買い集めた。自分で研いで使える形にした。

仕事がないから、江戸時代から残っている様々な仕事を見て歩いた。名人たちが遺した凄い作品をみると、燃えるような情熱が湧いてきたという。そして、自分も同じことができるようになったとき、本物の職人になれると思った。

そうした昔の木彫刻を複製できるのが、塩田彫刻店の強みであり、多くの顧客から信頼を勝ち取っている理由でもある。

木彫刻の仕上げで「人に感動を与えられる」それが何よりの誇り

塩田彫刻店では、通常の木彫刻製品の他に、仏像の修復、複製なども手掛けている。古典作品を再現、複製して後世に残していくという仕事は、高い技術はもちろんのこと、それ以上にやる気と情熱が求められる。

「親父もそうだったけど、古いものを見て、勉強して、それを再現することで、レベルが上がっていくんだ」と正氏は言う。正氏は、木彫刻の仕事について語るとき、「人に感動を与えられること」という言葉を頻繁に使う。それが正氏にとって、最大の喜びであり、誇りでもあるのだ。

「自分の仕事を見てくださった人が、一瞬でも心を動かされて、昔の人たちや先人への思いを馳せてくれたらうれしいね」

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江戸木彫刻Edo Wood Carving

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北澤木彫刻店

北澤 一京

古代から現代にいたるまで、日本の歴史とともにあった木彫刻の世界

仏教伝来とともに大陸から伝わったとされる木彫刻。平安の昔から、京都、奈良を中心として、たくさんの仏像が彫られていたのはご存知の通りです。しかし、室町時代に入ると、偶像崇拝を否定する禅宗などの宗派が台頭し、仏像が彫られる機会は一気に少なくなります。
その後、職人たちは、寺院などの社殿の欄間、柱などの建築彫刻を手がけるようになり、建築における装飾文化が花開きました。そして、江戸に入るとその技術はますます高まり、日光の東照宮のような名建築が生み出されるようになります。
最近の研究で、東照宮は、そのほぼすべてのパーツが江戸で作られ、漆塗りをされてから、現地に運ばれ、組み立てられたことがわかりました。漆で硬く木材をしめることで輸送中のトラブルを少なくしようとした江戸の職人たちの知恵を感じます。
そうした建築物の他に、江戸時代は、身近な木工製品や芝居や茶道の道具など、木彫刻の技術が生かされ、さまざまな製品が作られ、木彫文化が一気に花開いた時期でもあります。
そして、文明開化の明治を迎えると、海外の文化が広まり、日本でも西洋建築が盛んになりました。大正、昭和と時代が進むにつれ、木彫刻においてもその影響を受けた職人たちはたくさんの数にのぼります。彼らの傑作は、国会議事堂をはじめとするさまざまな建築物に、今日も見ることができます。

初めての地で、迷子になって切り開かれた職人としての道

初夏、約100品種20万本の花菖蒲が咲き誇り、多くの観光客でにぎわう東京葛飾の水元公園。
そこから歩いて、数分のところに北澤一京さんの工房はある。
江戸木彫の北澤一京といえば、成田山新勝寺の獅子頭をはじめ、富岡八幡宮の日本一といわれる神輿の彫刻師として業界で知らぬ者はない。まさに現代の江戸木彫を代表する彫刻師の一人である。
昭和15年、栃木県生まれ。父は手描き友禅の職人であり、全国紙に挿絵も描く画家でもあったという。しかし、従軍記者として、シンガポールへ向かう途中、船が沈み、帰らぬ人となってしまった。戦後、北澤さんの母は、4人の子供を育てるために花の行商を始める。大きな花篭を背負った母親の後姿が今でもまぶたに焼きついている。子供たちは帰りの遅い母親の代わりに家事を分担した。薪を割り、風呂を沸かすのは北澤さんの仕事だった。火の番をしている時に、手持ち無沙汰で小刀でコケシや人形なんかを彫っているのを近所の人に、うまいうまいと褒められたのがきっかけで彫刻の世界を志すようになったという。
「ようするにおだてられちゃったんだよね。それで埼玉の彫刻屋さんに弟子入りしようと15歳で家を出ちゃったんだ。母親は好きなことをおやりといって黙って送り出してくれた」
しかし、栃木から一歩も出たことなかった北澤さんは、初めての埼玉の地で道に迷ってしまった。町中を探しても、目当ての彫刻屋がどこにあるかわからない。
歩き疲れ、途方に暮れている所に、偶然出会ったのが仏壇屋の大旦那だった。訳を話すと「なに? あんなところに行くのか? もっと上手な彫刻屋を紹介してやるから、そんなところへ行くな」と言われ、連れてこられたのが、浅草の飯島米山という当時から江戸木彫界の名工とうたわれた人物の工房だった。
「人間どこで運命が変わるか、わからないよね」と北澤さんは笑う。

仕事は道具が教えてくれる。親方が教えるべきものは別にある。

飯島米山という人物は、傑出した人だったと北澤さんはいう。
「親方は仕事を教えるんじゃない、食うための道を教えるんだというのが、口癖でね。仕事は何にも教えてくれなかった。でも、その意味は今はよくわかるんだ」
その意味とはこうらしい。木彫の仕事は人が教えてうまくなれるようなものではない。300以上もある鑿(のみ)を使い分けるには経験を積み重ねる以外に道はない。そのためには道具を自分で研ぎ、道具を知ることが肝要。仕事は自然と上達する。言い換えれば、仕事のやり方は道具が教えてくれるということだ。しかし、仕事を得るには、人の縁だけでなく、時の運も必要になる。その道を開いてあげるのが親方だということらしい。
今、これだけの技術を持つ名工の北澤さんにもかかわらず、弟子を取るのをやめている。その最大の理由がここにある。
「親方として何をしてあげられるかということを考えると、今はおいそれと弟子はとれる時代じゃないよね。日本建築が減り、和室もない、仏壇もない家が当たり前になっているからね」
もちろん、木彫の世界は建築や仏壇だけではない。しかし、我々の生活からどんどん日本人らしさとか、日本的な物が失われていっているのも事実である。そこに木彫という工芸はぴたりと重なってしまう。
「でもね、これから新たな分野もきっと開けるとは思っているんです。木彫の歴史は、平安の時代から、そういうことの繰り返しだからね」

分かれと出会いが生んだ 北澤一京の彫刻師としてのスタイル。

北澤さんの木彫の職人としての実績は華やかだ。富岡八幡宮の日本最大の神輿をはじめ、成田山の獅子頭など日本人にとって、未来永劫、宝となるような作品を次々に生み出してきた。しかし、そうした仕事ができるようになるには一つのターニングポイントがあったという。
それは今から、もう30年ほど前のこと。奥様が突然の病気で他界してしまったのだ。まだ、42歳という若さだった。3人の男の子を育てるため、北澤さんは悲しみにくれている暇はなかったが、心はいつも虚だったと当時を振り返る。
「仕方ないと言い聞かせて、虚勢を張っても、自分の心は正直だからね」
しかし、別れは新たな出会いも生んだ。当時彫り上げた仏壇が故石原裕次郎夫人、まき子さんの目に止まったのだ。どうしてもこの彫刻師に頼みたいと、大手仏具店を通して、亡き夫の仏壇の彫刻を依頼してきたという。
「若くして伴侶を失うということが、どれだけの悲しみであるかをわかっていたから、まき子さんの話がすうっと心に入ってきた。仕事という気持ちでは彫らなかったね。必死で彫った。それが女房への供養にもなると思ってね」
仏壇というのは、皆が手を合わせ、故人に会いにくる、いわばその人の分身のようなものである。昭和の大スターの仏壇に中途半端なものはいらない。材は、今では天然記念物の屋久杉、高さ6尺、彫刻はすべて北澤一京が仕上げた。この世に二つとない仏壇が出来上がった。完成した仏壇の前にして、夫人は動こうとしなかったという。
それ以来、北澤さんは仕事に対する考え方や木彫への姿勢が変わっていったように思うと語る。
「気がついたんだよね。彫られるべき物は、もう木の中に埋まってることに。私がすべきことは、余分なものを取り除くことなんだなと思うようになった」
徹底的に肉をそぎ落とし、彫る対象を極限まで浮き上がらせることで、まるで動いているかのように見えると評される北澤さんの彫りのスタイルがこうして出来上がっていった。

数年後、富岡八幡宮の神輿を彫り上げ、庶民にお披露目し、神社に納まる日、北澤さんは珍しく見物に行った。古式伝統にのっとり、船で永代橋まで神輿がやってくると、何万人という群集がそれを出迎えた。
北澤さんは、人ごみに紛れてぼんやりとそれを眺めていたという。すると、前に座っていたお年寄り二人の会話が耳に届いた。
「こんなものが見られるなんて、長生きして良かったね」
その瞬間、ああ、この仕事をやっててよかったなと初めてホッとしたそうだ。
今、北澤さんは、木と向かい合うのが楽しくてたまらないという。彫りたいものはたくさんある。ただ、それを彫らせてくれる木と出会えるかどうか。
そんな北澤一京さんの作品がこのサイトで手に入るというのは、すごいことだと思う。すべてが本物、彼自身が彫り上げたものである。ぜひ、じっくりとご覧いただきたい。

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江戸打刃物Edo Uchihamono

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宗秋

八重樫 宗秋

時代の流れに翻弄されながら、社会の中に花開いていった日本の鍛冶文化。

戦国時代から、江戸時代になるにつれ、戦の中で刀剣の需要が低下し、刀鍛冶の技術はさまざまな道具へと転化していきます。大きな区分けでいうと、農業道具、大工道具、そして庶民の生活道具の三つの方向へと、その技術は発展していくことになります。

農業道具を作る鍛冶屋を「野鍛冶」と呼び、木工道具を作る鍛冶屋を「道具鍛冶」や「大工道具鍛冶」と呼びます。野鍛冶は、農村においてその地方独自の発展をし、村の家庭において、唯一、一晩中、薪を燃やすことが許された、尊い存在とされていました。

一方、道具鍛冶は、おもに大都市を中心に技術を進歩させ、木を扱う大工や指物師のための道具を作り続けてきました。それらは質が高く、江戸の道具で作った家具や建築が、現在も残り続けていることから、その鍛冶技術の高さは証明されています。

そして、最後の庶民の道具とは、包丁やハサミなどです。明治の文明開化とともに、さまざまな西洋の道具が紹介されるようになり、新しい刃物が登場しました。いわゆる「打刃物」と呼ばれる鋏や包丁、そして彫刻刀などです。そして、それらを作る鍛冶の技術も発達することになったのです。

昭和の下町の情景が残る亀有。この地に江戸の誇れる名匠の工房がある。

亀有駅から歩いて5分ほどの住宅街に、関利の工房はある。最初に訪れた時、周囲の環境があまりに住宅街であることに驚いた。火を燃やす鍛冶屋が、こんな環境にあるのかという驚きであった。

関利の歴史は、東京でも最も古い包丁鍛冶のひとつといわれる。ビルの一室で、まさしく刃物を作っているとは思えない環境であるが、それは八重樫宗一氏の長年の改良努力によるものだ。火花や煙などをいかに抑えるか、そういう工夫をしながら、今日まで、この環境を維持してきたのだという。工房の中も小さな換気扇がひとつあるだけで、熱い鍛冶の作業をやっているとは思えないほど、明るく涼しい。

「昔はここいらでも、隣近所、みんな、中小の工場や職人さんたちの仕事場だったからね。それが一軒、二軒と減っていって、住宅街になっていったんだよね」

研鍛、鍛錬、焼入れ、その3つが揃って良い刃物の出来上がりです。

打刃物の仕事で大事なことは、鋼の目利きから始まるという。使う鋼の質が、そのまま製品の質を決めてしまうからだ。次に、熱を入れて、叩くわけだが、その温度や回数なども、長年の経験と勘が求められる。そして最後の工程が、焼入れ。

「鍛錬と焼入れ、どちらが大事かは、人によって考え方が違うんですが、私は、最後の焼入れで決まると考えています。最後は、素材や叩きをすべてひっくり返してしまうほど、焼入れは大切な工程なんです」

鍛錬とは、金属を熱して叩くことをいう。何度も繰り返すことで、金属内の不純物が取り除かれる。そして焼入れとは、一定の温度にした刃物を水で急速冷却すること。これにより、組織が変化し、金属の硬度が上がる。

鋼材と火は近代化されたが得られている。最新の職人技の技術を追げていくことが今後の目標。

「鋼材は昔と比べて、本当に良くなりましたね。それから、炭から油に燃料が変わり、安定した品質を得られるようになりました」

八重樫氏は、そういう変化に対応しながら、自身の技術を伝統にとらわれることなく、磨いていっている。「仲間からいろいろ学びますね。ここはこうやったほうがいいとか、積極的に聞いて、自分の仕事に取り入れるようにしています」

関利の包丁は特徴として柔らかさがあるという。刃こぼれしにくいのだ。これは他の包丁鍛冶と比べて特別らしい。その秘密は、焼入れをする際の温度管理にあるが、その詳細は秘密である。

八重樫氏は、道具に対する思い入れが強い。自分の仕事の最高の理解者は、自分が作った道具を使ってくれる人だという。いつでも、お客様の声に耳を傾け、どうすればより使いやすくなるかを考える毎日だと語る。

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棕櫚たわし

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有限会社サガラ

佐柄 真一

日本人によって考え出された環境に優しい生活用品。

たわしは、亀の子たわし西尾商店の初代西尾正左衛門師が、明治40年にどろ落し用マットの切れ端を束ね、金洗いに使っている人がいるのを見て考案したといわれています。

材料に椰子の実を使ったものと、棕櫚(シュロ)皮をつかったものがあります。以前は、各家庭の台所には必ずといっていいほどあったものですが、現在はナイロン製で機械で作るものが多くなり、値段的にも大量生産できるため、たわしを手作業で作る職人は少なくなっています。棕櫚製のたわしは、素材が柔らかく持ちが良い事で評判です。

兄弟で作り続ける東京で唯一の棕櫚タワシ工房。

バタバタと乾いたエンジンのような音があたりに響き渡る。

高床式の木造家屋の一階部分は車庫になっており、音はその向こうから響いてくる。二台の車の間を抜けると、上へ続く古い木板の階段があって、それを上って行くと、板貼りの作業場が広がっている。日本の伝統的な納屋のようでありながら、どことなく異国の香りが漂うのは、独特な形の手製の工具類や、親水路に面した木枠の窓から見える葛飾の街並み、それに晴れた夏の日、窓から降り注いだ強い陽射しが、ジブリのアニメで描かれるような欧風な印象を与えるからかもしれない。

床が震えるほどのモーター音の正体は、ねじったタワシ棒の刈り込みをおこなう機械。いわゆる刈り込み機。それは長いベルトで回転させるタイプの大きな物で、座席が付いている。すぐそばでゴウゴウと負けずに唸りをあげている巨大な換気扇をプロペラ代わりに装着したら、飛べそうな雰囲気だ。

棕櫚タワシの伝統工芸士、佐柄真一さんは、我々が訪ねた時、まさにその機械に乗り込んで、刈り込み作業の真っ最中だった。

タワシ作りで大切なのは、ねじり。均等に繊維が揃ったタワシは、丈夫で長持ちする。

挨拶をすると、人懐っこそうな笑顔を浮かべ、機械を止め、まず、タワシ作りでもっとも重要な工程の一つだというねじりの作業を見せてくれた。

お祖父さんの代から使っているという、ねじり機に針金を二つ折りに装着し、棕櫚の繊維をたばね、針金の間に均等に挟んでいく。それを一気にねじる。ねじり終わると針金を外すのだが、この瞬間、テンションが相当かかっているため、まるでライフルのような激しい音がする。

試しにやらせてもらうと、見た目通り、かなりの力がいる作業。とてもじゃないが、これを何本もねじるのはきつい。しかも、力を入れすぎてもだめで、限界を超えると針金がちぎれてしまう。その切れるか切れないかのぎりぎりまでねじるといいタワシになるという。絶妙の力加減が要求される仕事なのだ。

「らせん状のねじり幅が均等でないといいタワシにならないからね、均等になるまで、棕櫚を揃え、ねじっては戻し、また、ねじるの繰り返し、面倒だろう(笑)」

タワシ製作は、佐柄さんで三代目。学校を卒業すると同時に修行をはじめ、もう半世紀近くの月日が経つ。

現在は弟の誠二さんと二人で、工場を切り盛りしている。誠二さんは、もともとは会社員。大手の企業に勤めていたものの、父親の他界をきっかけに、この道に入ったという。

「暑いでしょう? クーラー入れても、刈り込みの埃ですぐ壊れちゃう。だから、夏場は汗だくでやってるんだ」と誠二さんは笑う。

確かに暑い。ちょっと手伝っただけで、汗が吹き出してくる。でも、開け放たれた窓から、時おり、吹き込む風が気持ちいい。

「ものづくりは追求できる点がいいよね。タワシは簡単そうで、奥が深い。おそらく、僕も他の人より5年は先をいっている自信はあるんだけど、兄貴はそれよりもさらに5年進んでいる」と誠二さん。

素材、人、時代が変われば、それに合わせる。これで終わりはない。

伝統工芸品なのに、まだ進化を続けているという話に興味を持った。あれこれ聞いているうちに、時間が経つのもすっかり忘れていた。佐柄のタワシの製作工程は、棕櫚の繊維を選別する段階から、ねじりに入るまでに30工程以上の作業がある。この工程は日々、変化し続けているという。その一つ一つの理由が理論的で、説得力があるのは、それだけ経験を積み重ねてきた証拠だ。

「材料の質も変化してるし、使われ方も昔とは違っているから、昔と同じ方法じゃだめなんだ。工程はどうしても増えていくね」と兄の真一さんが言葉をつなげた。

佐柄の棕櫚タワシは、プロの料理人、工芸職人の間では、有名だ。お得意先リストには、聞き覚えのある名前が並ぶ。

今、我々がふだん街中で手に入るタワシは、棕櫚ではなくパーム(椰子)がほとんど。しかも、そのすべてが海外生産だ。

材料も、生産も外国、その結果、安く、そこそこのタワシが手に入るようになったものの、同時に棕櫚タワシを製作する職人が国内にほとんどいなくなってしまった。

だから、値段は高めでも、質の良い道具を求めるプロの世界では、佐柄のタワシはその価値を認められている。

「棕櫚の材料は、年々悪くなっている。質が悪くなっているというよりは、使えない部分が混じる量が増えてるんだ。安定して材料が入らない上に、手間がかかるんじゃ、誰もやらなくなるよね」

棕櫚の持ち味は、そのしなやかさとコシ。

そのためには繊維を揃え、適切な密度に束ね、均等にねじる必要がある。

そのための下処理にかかる膨大な時間と手間は、惜しまない。佐柄の棕櫚タワシが、触り心地からして他のタワシと一線を画するのは、そうした素材を見極め、妥協を許さない職人としてのプライドが背景にある。

「私はタワシを伝統工芸とは思ってないんだ。昔のとは違うからね。だから、自分を伝統工芸士と思ったこともない。じゃあ、なんだと言われても、言葉は見つからないから、ただのタワシ屋。それでいい」

今、この佐柄のタワシを受け継ぐ人が、誰もいないことが本当に残念だと思う。

日本の伝統産業が、すべからく衰退の一途を辿っていることはご存知の通りだ。時代の流れだから仕方が無いとも思う。でも、職種が一つ減れば、その分、その国の若者の働く場所が減ることになる。

・・・とは、言ったものの、

そんな通りすがりの安っぽい感傷などよそに、二人のご兄弟は、今日も、明日も、たんたんと棕櫚を選り、ねじり、いまにもどこぞへ飛んでいってしまいそうな刈り込み機に乗り込み、タワシを作り続けていくに違いない。今より良い物を作るために、侃々諤々、兄弟で議論をし続けるに違いない。それしかないし、きっと、それでいいのである。なんとなくお二人を見ていると、古びた自転車工房で、飛行機を発明したライト兄弟が思い浮かんだ。彼らもあとを継ぐ者はいなかったという。だからといって、今日、航空技術が失われたわけではない。

日々、黙々とやるべきことを続けることが、新たな流れに繋がることを信じ、今は、消費者として、佐柄のタワシの使い心地を楽しめばいい、そう思い直した。

佐柄 真一氏 経歴

  • 昭和21年 葛飾区宝町生れ
  • 葛飾区伝統工芸士 認定

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江戸押絵羽子板Edo Oshie Hagoita

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たかさごや南川人形店

南川 美子

女の子の健やかな成長を願って、贈り物として人気を博した押絵羽子板。

羽子板は、室町時代の『看開日記』という書物に「永享4年(1432年)正月、御所において公卿や女官のかたがたが、紅白に分かれて羽根突きに興じた」と記録があることから、それ以前から作られていたといわれています。

古くは「胡鬼板」とも呼ばれ、正月の羽突き遊びや新年を迎える贈り物として用いられてきました。羽子板で諸々の邪気を羽のけて、健やかな成長を祝う意味も込められています。

押絵羽子板は、婦女子の手工芸品として江戸時代に普及した押絵細工が、女子に縁のある羽子板に用いられたものです。

特に江戸時代後期には、歌舞伎の人気役者の舞台姿を写した似顔羽子板が、江戸の人々の人気を得ました。

※浅草羽子板市・・・江戸の羽子板市では、浅草が最も古く、万治二年頃からといわれています。(毎年12月17日・18日・19日の三日間)

浅草寺の羽子板市の老舗「高砂」。女性の職人の手で丁寧に作られた本格派です。

ご主人の跡を継ぎ、正絹の反物を選ぶ段階から丁寧に羽子板を作り続けている南川さん。それを支えてくれる職人さんもまた女性です。

新田三千恵さんは、先代から仕事の手ほどきを受け、30年以上も江戸押絵羽子板を作り続けてきたベテランの職人です。

お二人の手から生み出される羽子板は、女性ならではのあでやかな色彩感覚と細やかな仕事が高い評価を受けており、高砂の工房には羽子板市だけでなく、年間を通して顧客が訪れています。

海外でも高い評価を受けている南川人形店の羽子板は、海外向けに特別にeBayで販売されています。

  • 南川美子[平成23年]葛飾区伝統工芸士認定
  • 新田三千恵[平成24年]葛飾区伝統工芸士認定

南川美子氏からのコメント

羽子板は羽子板市で買われることが多く、職人は羽子板市にあわせて作り上げます。

毎年その時代を反映する人を写した似顔羽子板を作り、世の中に送り出しています。楽しみにしていただいているお客様のためにも、喜ばれる羽子板を作り続けていこうと思っています。

南川 美子氏 経歴

  • 南川禄三郎商店代表
  • 昭和45年より仕事に従事
  • 職人とともに羽子板の製作をし、現在に至る

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江戸切子Edo Kiriko

株式会社清水硝子

江戸切子とは


江戸切子(えどきりこ)とは、ガラスの表面にカットを入れる技術のことです。
江戸切子は、天保5年(1834)、江戸大伝馬町のびいどろ屋・加賀屋久兵衛が、金剛砂を用いてガラスの表面に彫刻することを工夫したのが始まりと言われています。
明治時代に入って、ヨーロッパのカットグラスの技法が、工部省品川硝子製造所から導入され、ガラスの表面に文様な模様を施すガラス工芸の技法が確立。カットグラス(切子)の技法は人から人へと伝承され、今日に至っています。

伝統工芸江戸切子について


江戸切子は、国の伝統的工芸品、東京都・葛飾区の伝統工芸品に指定されています。
指定産地で主に回転道具を使用し、手作業で制作されているものを指します。
※「江戸切子」は、当社も加盟する江戸切子協同組合の登録商標です。

江戸切子の文様


江戸切子の伝統的な文様は、それぞれのカットのデザインに名称がついています。
例えば、加賀屋の引札(ひきふだ・広告のこと)に掲載されているカットグラスの切子に多いのは、「魚子(ななこ)」と呼ばれる文様。細やかなカットによる光の反射が魚の鱗のようにも見える魚子文様は、イギリスやアイルランドで18世紀から19世紀にかけて用いられた典型的なカットでもあります。
その他、八角籠目、菊繋ぎ、矢来など様々な文様があります。
これら幾何学文様のカットのほかに、花切子があります。花切子は小さなホイール等を使い、花鳥風月などを描くようにカットして表現する技法です。

清水硝子について


大正12(1923)年、当社は清水直次郎、シズヱ夫妻が深川の本所菊川町にて開業。昭和2年に区画整理で葛飾に移ってまいりました。
江戸切子工房の中でも長い経歴となる、戦前に創業したうちの一社です。

長年、各種受託加工を通じ多様な製品の加工も行ってまいりました。
また自販のほか、企業・団体向けの各種記念品・オーダーメイドアイテム、平成24年(2012)に竣工した東京スカイツリーの内装の製作に協力するなど、建築・デザイン・コンテンツコラボ向けの様々なご依頼にもお答えする新たな分野への挑戦も始まっています。

そして、令和5(2023)年には、創業100周年を迎えました。

工部省品川硝子製造所の伝習生・今村仁之助に師事した初代・清水直次郎の技と物づくりへの思いは、今日の職人たちへ受け継がれています。
職人が一つ一つ心を込めて作る、当社の江戸切子。どうぞ手にとり、お使いになってみてください。

銅板仏画Copper Plate Buddhist Art

ヤナギアート

唯一無二の仏画の世界

先祖の供養のために、お寺に仏画を納める。

そうした習慣が日本のいたるところに今も残っているのをご存知ですか。

銅版画は江戸時代の画家である司馬江漢が、その技法を最初に学んだといわれています。

銅版仏画は銅版画といいながらも、いわゆる版画ではありません。

紙に写し取るのではなく、版として膨り上がった銅板そのものに彩色していく新しい仏画の技法です。

版に色をつける以上、色をのせられるのは腐食によって円状となった部分に限られ、下絵の段階で色の組み立てを綿密に構成しないと、ちゃんとした絵に仕上がりません。

この技法を確立したのが、伝統工芸士の柳富治さんです。

銅の持つ金属の光沢と文献に基づく正確な仏の色の再現により、誰も見たことのない新しい仏画の世界を開いたとして、柳さんの作品はパリのルーブル美術館をはじめ、世界各地でさまざまな賞を受賞しています。

国宝の復刻から始まった柳富治(柳澄観)さんの仏画の世界

一条天皇から賜ったとされる国宝「両界曼荼羅」で名高い奈良県高市郡高取町の子嶋寺。

はるか平安の昔より、深い緑につつまれるようにひっそりと建つ名寺である。

その「金剛界曼荼羅」「胎蔵界曼荼羅」を独自の技術で復刻し、高い評価を得た人物が柳富治さんだ。

子嶋寺の両界曼荼羅は、濃い紺色の綾地に金と銀を混ぜた絵具で描かれている。しかし、曼荼羅は本来、色彩が華やかなものであり、また、その色は描かれる仏ごとに厳密に決められている。柳さんは、寺に復刻版を納めた後、ぜひ正確な色で「両界曼荼羅」を再現したいと考えた。そこで古い文献を集め、それを紐解き、一体ずつ正確な色を調べていったという。

もともと、玩具メーカーで彩色を学んでいた柳さんにとっては、文章から色を想像し、再現するという作業は難しくなかったのかもしれない。とはいえ、二つの曼荼羅に描かれている仏の数は千数百体を超える。完成までには何年もの時間がかかった。

パリのルーブル美術館に認められても、職人であることにこだわり続ける

「千里の道も一歩からとはよくいわれるけど、僕は長いこと遍路をしていたからね。一つひとつ積み重ねていくことが嫌じゃなかったんだ」

そう、柳さんにはもう一つの顔がある。それはお遍路さんと呼ばれる巡礼者としての顔だ。きっかけは父親の死だったという。その頃から仏画の道に入り、四国八十八箇所巡りを始めた。何度も巡るうちに善通寺から「先達」という資格を授与され、初心者を安全に導くという役割を担ってきた。今では、さらにその上の「権中先達」という立場となって活動を続けている。そして現在、柳さんが完成させた彩色版「両界曼荼羅」は、東京の木根川薬師をはじめとして、さまざまな場所に奉納・展示され、我々が目にすることができる。

「僕は自分を芸術家ではなくて、あくまで職人だと思ってる。だから、自分の作品に銘を入れないんだ。僕がいろんなコンテストに作品を出すのも、本来、職人というものは名前じゃなくて、作品で勝負していると思うからなんだよね」と柳さんは笑いながら言う。

平成16年にパリのルーブル美術館で開かれた「美の解放展」に出品し、グランプリを受賞したことがきっかけとなり、柳さんの作品はスペイン・バルセロナの国際ビエンナーレ展をはじめとして、世界の数々の展覧会やコンテストに招かれるようになった。銅版画は海外の技術だが、柳さんの作品は銅版そのものに彩色してしまう。そういう作品は世界に類がない。

「銅という金属が持つギラリとした輝きと、仏画の持つ柔らかな色彩が一体になることで、これまで誰もが見たことのない仏画になると思って、作り始めたんだよね」

柳さんがエッチングと彩色の技法を組み合わせて、銅版仏画というジャンルを切り開いたのは、すでに40代半ばを過ぎてからだった。

もちろん、そこにたどり着くまでの道のりは楽ではなかった。

「職業というのは、時代が変われば必要がなくなるものもあるよね。僕が彩色を学んだ玩具の世界も同じ。技術が進歩すれば、取って代わられることもある。でも、そこで培った経験や技術というのは決して無駄にはならないし、無駄にしないように生きなければいけないと思うんだ」

柳さんは、玩具業界が斜陽となり、次の道を模索せざるを得ない中、当時まだ新しい技術だったエッチングに出会った。これなら自分の彩色の技術が生かせると思ったという。

写真では伝えきれない圧倒的な仏の存在感を感じる仏画

これまで柳さんが製作した仏画は、相当な数にのぼる。その多くが50号を超える大きな作品ばかりだ。

柳さんの作品を前にすると、誰もが口を揃えたように言うのが、その圧倒的な「仏」の存在感についてである。絢爛な光沢と仏教の五色の華やかさの中で、柔らかな色合いで描かれる仏が、見る者を包み込むように迫ってくるのだ。写真ではとうてい伝えきれない迫力がそこにある。

前述したとおり、柳さんの作品は、奈良県の子嶋寺や東京の木根川薬師をはじめ、葛飾の伝統産業館でも常時展示されている。もし、お近くにお住まいの方はぜひ一度訪れていただきたいと思う。今までの仏画とはまったく違う新しい表現技法であるにもかかわらず、歴史ある寺の風景にすっと馴染んでいる。まるで最初からそこにあったかのように違和感がない。

柳さんはその点についてこう話す。

「新しさに媚びるのも違うけど、古いものにしがみつくのも好きじゃない。時代は流れているからね」。時代によって技術や道具が異なるように、人の感性も異なる。柳さんが描く仏画の世界は、過去でも未来でもない、まさに現代の人のための現代の仏画だから、我々の心にすっと入ってくるのかもしれない。

江戸衣装着人形

松菊

菊池 之夫

這子人形から始まった日本人形の歴史。元禄時代に町人文化とともに一気に花開きました。

江戸節句人形(江戸衣裳着人形)とは、雛人形、武者人形、市松人形など、衣裳を着せつけた人形および衣裳を着せつけてできる人形(裸人形)を総称したものです。

人形は平安時代に新生児の無病息災を祈るため、枕元においた天児や這子と呼ばれるものが原形ではないかといわれ、京都で発祥したといわれています。

江戸時代に入ると、諸大名は参勤交代の折りに、苗字帯刀を許された人形師たちを随行し、その弟子たちが各地に人形を普及していきました。

さらに元禄年間には江戸の町人文化が発達し、幾多の名士の指導のもとに多くの職人が技術指導を確立し、それぞれの雛人形、五月人形、市松人形、風俗人形などを作り、江戸節句人形の伝統の基礎を築きました。

当時爆発的な人気を博した大阪の歌舞伎役者、佐野川市松の若衆姿を再現した人形がこれまで続いている市松人形の由来です。

青戸の老舗人形工房「松菊」。

松菊は、先々代から、現在の墨田区東向島で菊地人形製作所として発足。

昭和53年には、青戸にて製造を一本化しました。修行を経て、5月人形、ひな人形等の製造法も身につけ、現在その技術を磨き、伝統の技法により、一品物の人形を手掛けています。

松菊の人形は海外でも高い評価を得ており、eBayで購入できます。

http://stores.ebay.com/Katsushika-densankan

[平成16年]葛飾区伝統工芸士 認定

菊池 之夫氏からのコメント

一般的なに人形から、個性的な人形へと、研究を重ね、納得のいく作品づくりを心掛けています。

錺金具

鶴岡錺工房

鶴岡 保

建築、神輿を補強し、華やかに飾る日本の伝統的装飾技法。

建物を飾る飾金具。日本人にとって、建物や神輿を飾る金具はとても馴染み深いものです。国宝「法隆寺金堂」が最古のものといわれています。盛んになったのは安土桃山から江戸にかけて、柄もさまざまな物が生み出されるようになりました。素材としては、金銀が使われることもありますが、基本的には銅、真鍮が主です。

それらを切り抜き、鏨(たがね)で細かい柄を彫り付けていきます。当初は建築への装飾が主な目的でしたが、神輿をはじめ、装飾だけでなく堤子など儀式で使われる道具類にも飾師の仕事は及びます。

昭和の初めより、親子二代に渡り、錺師の伝統的技法を現代に伝える。

鶴岡飾工房の仕事は、幅広い。日光の東照宮をはじめ、全国の東照宮の修復を手がけているし、中尊寺金色堂や伊勢神宮伊勢神宮御神宝、御帳台、鳳輦、その他神社などの文化財の丁度金具の修繕や製作も手がけている。舞楽・雅楽で身につける金具なども製作し宮内庁関係の仕事も多い。

鶴岡 保氏からのコメント

文化財の修繕は数十年に一度ですから、時代時代の職人同士の腕が比べられる仕事です。同じ職人同士ですから、昔の職人と言えども負けたくないし、後世まで残るものですので、納得できるまで、時間の許すかぎり作り直すことが多いんです。

鶴岡 保氏 経歴

昭和47年 都立工芸高等学校を卒業後、家業を引き継ぐ。